私でなければダメな人と、私だけはダメな人

日本語教師こんぶの会です。

訪問してくださり、ありがとうございます。


現在、勝手に「ブログ強化月間」中で、メンバーそれぞれが何でもいいからブログを書く!という趣旨はよくわからないけれど「やってる感」を醸しだそうという取り組み中です😅


こんぶの会には3人のメンバーがいるので、だれが書いたか特定されにくい(いや、されるでしょう、きっと🤦‍♀️)という特徴を生かして、日ごろ考えていることや突然の思い付き、鬱憤、実践なんでも書いちゃおうぜ、という試みです。


で、今回のブログ更新者は、最近もあったし日ごろからよく対峙することを余儀なくされる「教師としての自分」について書いてみようと思います。


う~ん、ちょっと重くなる可能性アリです。

でも、こんぶの会のダベリ会、もといミーティングでも話していることなので、こちらにも書いてみようと思います。


突然ですが、皆さんは

「先生が大好きです💖」とか

「他の先生じゃなくて、〇〇先生に教えてもらいたい✨」とか

「〇〇先生以外の先生は無理です」など

学習者から肯定的なことばをもらったら、どう感じますか?

プライベートレッスンか、学校などかでもしかしたら答えは分かれるかもしれません。

いや、変わらないですかね🙄

素直に、「うれしい」と感じられる方もいるだろうし、「ちょっと照れるなあ」という方もいるでしょう。

もしかしたら、「最初からオンリーワンを目指しています!」という方もいるかもしれないので、その場合は「やったね👍」と思うかもしれません。


私も、うれしくない、と言ったら嘘になるのかなあ…ともう一度反芻しつつ…やはり、「困惑の方が大きい」と言うのが正直な気持ちです。


気持ちはありがたくいただくけれど、いいのかな?これで?という気持ち。


好きになってもらいたいわけじゃないし(ものすごく嫌われるよりはいいでしょうが💦)、私だけじゃなく、他の先生とも良好な関係を築いてもらいたいし、何より、そういう人がいる、ということは、必ずそうじゃない人がいる、ということを示唆しているだろうと思うからです。


つまり、「私じゃなければダメな人」が存在するということは、「私だけはダメな人」もいるはずだということです。


先ほどの質問とは反対に、皆さんは、

「〇〇先生の授業だけは出たくない」とか、

「〇〇先生がいるなら、学校へは行かない」

など、かなりストレートに拒否されたことはあるでしょうか?


言われたくないですよねえ。


私は、言われたことがあります。

正直、ハンパなくへこみます…

いや、「へこむ」なんて生易しいものではなかったですね、文字通り、病みました😓


原因は完全なる誤解が誤解を増幅させていったということが、ずいぶん後になってわかるのですが、当時の私は元々持病が悪化していたところにこのようなことばを投げかけられ、もう瀕死の病人のような心持ちでした。


この経験を通して、私が学んだことはいくつかあるのですが、まず

「万人に対していい先生」とか「だれからも好かれる先生」というのは、多分存在しないし目指すべき目標にはならないな、ということです。


私自身は「万人に対していい先生」を目標にしていたわけではありません。

どちらかというと、自分はどうありたいか、ということにフォーカスしていたつもりです。

でも、今考えてみると、「いい先生と思われたい」とか「教師としてのいい評価を得たい」という欲は、今より強かったと思います。


うん、「欲」でしたね、あれは。


今だって、嫌われるより好かれたほうがいろいろことがうまくだろうとも思うのです。

でも、目的化はしていないだろうな、と思います。

「好かれるため」とか「選ばれるため」ではないだろうな、と。

私を好きになってもらうより、「学ぶことの楽しさ」が伝わればうれしいし、何なら、「もう先生無しでもガンガン自分で学んじゃうもんね~」と言われたら、もうそれこそ「やったね👍」です。


ご存じの方も多いと思いますが、『嫌われる勇気』の中に、「あの人の期待を満たすために生きてはいけない」という章があります。(いきなり飛ぶね~)


アドラー心理学の中心的な概念である「課題の分離」を導く章ですが、私をどう評価するかは他者の課題であり、私の課題ではないと思えば、私が注力すべきはやはり「自分はどうであるか」になるのだろうなと思います。


なので、私にとって最も重要なことは、「教師として信頼してもらえる」自分であることができているかどうか、です。

学習者からの評価が収入に直接結びつく場合もありますが、やはり「いい評価を得ること」が目的ではないだろうな、と思います。


また、学習者の自律性(オートノミー)とも関係があります。

日本語教育の究極の目的は…?

などと言うとものすごく難しい話になりそうですが、そもそも言語という非常にやっかいなものを「学習させる」ことなんて無理ですよね。

でも、学習者の利益は最大化したい。

そうすると、どうしても学習者の自律性に働きかける必要が出てきます。


また話が飛びますが、以前働いていた日本語学校に、何でもストレートに話す先生がいらっしゃいました。

彼女は経験も豊富で、日本語学や歴史、日本語教育に関わる理論にも精通していて、心底「すごい人だ」と思っていましたが、彼女に共感することは、最後までありませんでした。

彼女は学習者に何かをさせようとしていたし、実際口癖が、「私ができるようにさせた」だったからです。

とても不思議な響きでした。

反感ではなく、不思議、です😅

言語の学習には彼女だけでなくさまざまなリソースがあるはずで、あれほどの知識と経験を持っていても、「私がそうさせた」と言い切ることも不思議だったし、「させた」ことを誇れるのも不思議でした。


私はもっと消極的で、私じゃなくてもいいはずだけど、せっかく私も関わらせてもらうから、できる限りのことはするよ、というスタンスです。


じゃあ、「私だけはダメな人は」は?


これはもう「すまん、私でなくできるなら、そうしてもらうよ」としか言えません。

もちろん、なぜ「私だけはダメ」なのか、理由は知りたいですが。

でも、なかなか教えてくれないです、そういう人は。

先ほどの学生は、ずいぶん後になって教えてくれたのですが、最後まで教えてくれなかった人もいます。


人と人とが関わるって、そういうことですよね。

本人にはいかんともしがたいことが、常について回るというか…

それが醍醐味だったりもするんですよね。

もちろん、「言われたくない」ことはたくさんあるんですが。


ということで、

もし「私じゃなければダメな人」が出てきたら(たいていの場合、言ってる本人がそう思い込んでいるだけですが)、私にとっては「要注意」。

「私だけはダメな人」にもできる限り注意します。


こういうことも、こんぶのメンバーとブツブツ話しています😅


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

次の更新はいつになるでしょう~?

おそらく近いうちに、ちょっと表現や言い回しが違う内容が出てくると思います!

楽しみにお待ちください~











日本語教師こんぶの会

教師としての成長を目指す日本語教師のグループです。

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